矢頭右衛門七教兼(やとうえもしちのりかね)

右衛門七の家は、祖父権右衛門以来、浅野家の家臣。
右衛門七は大石主税につぐ年少で、討ち入ったときは、わずか17歳であった。右衛門七の父、長助は勘定方20石5人扶持で、赤穂開城後、大阪に引き移り、同志との連絡にあたっていたが、病に倒れてしまったので、元禄15年(1702年)7月28日の京都円山会議には右衛門七が父の代理として出席した。はじめ大石内蔵助はあまりにも年若の右衛門七を同志に加えることを許さなかった。しかし、同志に加えてもらえなければ切腹もしかねないという必死の面持ちの右衛門七の姿に、内蔵助はついに父、長助の代わりに同志に加えたという。
8月15日、父長助は「わが志を継ぎ、必ず亡君の仇を報じてくれ」との遺言を残し、息を引き取った。
討ち入りの際には、父の戒名「円月霜光居士」と記した紙片を兜頭巾の裏に収めて攻め入った。表門組に属し、早水藤左衛門、神埼与五郎らと共に、刃渡り3尺あまりの刀を揮ってあっぱれな若武者ぶりを示したという。
右衛門七は、歳は17歳、眉目秀麗、大柄の美少年であったから、ひと際立派な派手な若衆姿は女と間違いられ、赤穂浪士の中に女がいて、それが男の姿をして討ち入ったと、江戸中の評判になったという。
水野家お預け中の出来事として、同家出入りの医師山口左全が、2〜3日前から門前をうろうろしている女の子に、不審をいだき
「こんなところで何をしているの」
と聞いたところ、その女の子は、
「わたくしは、矢頭右衛門七の妹でございます。母や妹と、兄のあとを追って、江戸へ出て参りましたが、噂によりますと、兄は近くお腹を召されるとか。母はこの噂を聞いて、宿で寝込んでしまいましたが、せめてこれを着せて死なせてやりたいと、縫い上げた襦袢を持っております。どうしてこれを届けようかと、毎日うろうろして困っております」
と云うのである。この話に同情した左全は、母の願いを聞き届けてやる
と共に、妹にもそっと会わせてやりたいと、水野家の接伴役とも相談をし、ないないに兄妹の対面をさせることとした。
あとで妹が持ってきた風呂敷包みをあけてみたところ、そこには、母が丹精込めて縫い上げた純白の肌着が入っている。これは、せめて最後は母の愛情のこもった襦袢で、可愛い息子の身を包んでやろうという、孝子に対する慈母の愛である。他に紫の布地と深紅の香袋が入れてあった。何のまじないだろうと同志の者は不思議に思ったが、右衛門七が涙
ながらに語るところによると
「私はまだ幼く、父も母もまだ若い頃、江戸では、江戸紫が大流行した
そうであります。田舎の貧乏侍の父は、おみやげにこの江戸紫を買って帰るつもりでありましたが、お金がなくて一反は買えません。せめてもと端切れを買って母へのおみやげとしたそうであります。母は、そう云う父の愛情を、いついつ迄も忘れず、肌身はなさず大事に持っておりました。今その大切な父の形見の紫の布地が入れてあるのは、亡き父の思い出と共に、討入りから切腹迄父も一緒にいてほしいという、願いを込めてのことでありましょう。
また、真っ赤なこの小袋は、今日会うことの出来ました妹のものであります。これは赤穂にいる頃、大石様の長女の、おくう様から妹が頂き、命の次に大事にしておるものでございます。その大切なものを死地に赴
くこの兄に対し、最後の贈り物としてくれたものでありましょう」
と語ったという。
孝子、慈母、そしてやさしい妹との兄妹愛、まことに美少年忠臣蔵、右衛門七にふさわしい話である。
三人の妹は、それぞれ良縁を得て幸せに暮らしたと言われている。

矢頭右衛門七教兼の宅跡