赤穂義士 矢田五郎右衛門助武 (やだごろうえもんすけたけ)

<役柄> 馬廻(うままわり、騎馬隊)

<享年> 29歳

<討入り時> 表門隊

<禄高> 150石

<没年> 元禄16年(1703年)
     2月4日切腹


<略年譜>

延宝3年(1675年)1歳 
五郎右衛門助武 赤穂で生まれる。
父は浅野内匠頭長直(たくみのかみながなお、赤穂藩初代)長友(2代)長矩(ながのり、3代)家来で矢田利兵衛。

元禄14年(1701年)27歳 
浅野長矩 殿中において、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に刃傷におよび即日切腹。五郎右衛門江戸藩邸より芝浜松町の借宅に赤埴源蔵(あかばねげんぞう)らと同宿する。
江戸の地理に明るく、吉良の動静を探る。

元禄15年(1702年)12月14日
吉良邸へ討入り。表門隊

元禄16年(1703年)2月4日 29歳
細川越中守綱利邸(熊本藩)において、大石内蔵助(くらのすけ)らと
切腹する。





神戸市の矢田立郎(たつお)様は、赤穂義士 矢田五郎右衛門の子孫になります。

先祖の矢田作十郎は慶長、元和(1596〜1623年)の頃、徳川家康に仕え、金鯉の兜(かぶと)で勇名を馳せた三河武士である。

五郎右衛門は、元禄15年12月14日吉良邸へ討入り(午前3時半頃)に当たっては、大石内蔵助の表門隊に属し、奥田孫太夫、武林唯七(たけばやしただしち)、勝田新左衛門ら9人(3人づつ3組)で屋内へ斬り込んだ。
 広間をぬけ、書院を目指して廊下を進もうとしたとき、3人(奥田孫太夫、矢田五郎右衛門、勝田新左衛門)のうち一番後ろにいた矢田に、物かげに身を隠していた吉良方の一人が、不意に飛び出し言葉もかけずいきなり背後から斬りつけてきた。
 幸い鎖帷子(くさりかたびら、鎖で編んだ下着)を着けていたので、真っ二つにならずにすんだが、五郎右衛門は大いに怒って「おのれ卑怯者(ひきょうもの)」と叫んで、振り返りざまに刀を横になぎ払った。相手はその一撃をうけて、傍らの火鉢の上へ倒れ伏した。そこへもう一太刀と降りおろした。勢いあまって下の火鉢に斬り込み、さすが五郎右衛門の愛刀も、切っ先より5〜6寸下のところから、ポッキリ折れてしまった。そこで、止むを得ず、相手の刀を拾い取って奥へ進み、大いに奮戦した。

間もなく、表門隊と裏門隊が出会い、やがて刃向かう敵もいなくなった。しかし、肝心の吉良上野介が見つからない。屋敷の天井から床の下までくまなく三度捜した。武運に見放されたかと非常に落胆した。
 夜はしらじらと明けそめ(午前5時すぎ)、先ほどまでの激闘が嘘のように、邸内は静まりかえった。そのとき、炭部屋のような所からささやき声が聞こえた。「この中に人がいるぞ」という声に、近くにいた者が駆け寄って、戸を蹴破った。すると中から皿や茶碗、鉢や炭を投げつけてくるので、一瞬、浪士たちがためらった。
 突然、一人が飛び出してきた。続いてまた一人、また一人と計三人が死にもの狂いで斬りかかってきた。後で判ったが、清水一学ら三人であった。彼らを討ち取ったのは、堀部安兵衛、矢田五郎右衛門、三村次郎左衛門であった。
 その奥に、最後の一人がひそんでいた。それが吉良上野介であった。五郎右衛門は、細川邸に預けられた。切腹にのぞんで、「討入りのさい、自分の刀を打ち折り、相手の刀を奪ったので、遺族へ下げ渡すとき、その旨お伝え下さい」と言った。                        

大石神社の参道に並んでいる赤穂義士四十七士の石像の中に、矢田立郎様奉納の矢田五郎右衛門の石像があります。
 又、大石神社境内の「義士木像奉安殿」には、江戸からの凶報に国家老大石内蔵助以下藩士一同が、城を枕に討死か、はた又無血開城か、連日の評議に、もはやこれまでと、復讐の決意を眉に表わし登城せんとする凛々しい姿の五郎右衛門の木像があります。



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