お栄(えい)

大石内蔵助は、庄屋海老名邸の横に、10畳2間の居室と庭泉を設け(現在、相生市相生2丁目、相生公民館内)藩政の暇に来遊し、愛妾お栄の方を置いていた。

お栄の方の娘「りよ」は、元禄14年(1701年)2月17日に4歳で早世し、墓は花岳寺境内の「大石家先祖の墓所」にある西向きの小さいお墓「梅容童女」である。

阿軽(おかる)

阿軽は、京都二条寺町の二文字屋次郎左衛門の娘である。
元禄15年春、りく夫人を始め子供らを但馬豊岡へ帰してから内蔵助は、濫行&濫行が続いた。
内蔵助の真意が分からない連中は、妻子を豊岡に帰したのは放蕩の邪魔になるからと誤解をした。
一族の小山源五右衛門、進藤源四郎らは梅林庵拾翠庵の海首座に相談をした結果、美女のほまれの高かった軽を側室とした。

このため同志の間に内蔵助は遊蕩にふけるばかりか、側女までおいている、この調子では到底大事件決行は出来そうにもないと、これを口実に脱盟する連中も増えたという。

元禄15年10月、内蔵助が京を発ち江戸に下ってからのち、この軽にどうやら子供が出来たらしい。
というのは、愛妾の子とはいえ将来生まれてくる自分の子供のことについてあれこれ心配をしている手紙を京都の大西坊証讃に送っている。

軽の墓は京都今出川千本通西入ル上善寺本堂裏に「清誉貞林法尼」と記した墓が、それだといわれている。