赤穂七不思議

その1 : 唐船(からせん)

『その昔、唐の船が沈んで上に島が出来た。踏めばドンドン音がする。』

宝物を積んだ唐の船が、赤穂の沖で嵐にあい沈没し、千種川の土砂に埋まって島となり、唐船島と呼ばれるようになりました。
やがて塩田堤防と地続きになり、唐船山となり、今でも頂上で足踏みすると『ドンドン』と空洞で反響するような音がします。
唐船山の高さは19m、兵庫県では低い山の第1位。
全国では19位である。




その2 : かんかん石(赤穂城跡、二の丸門跡)

『二個同質の石ながら、一つはコツコツ、一つはカンカン音がする不思議。』

文久2年(1862年)森家の家老、森主税が、勤皇派と称する下級藩士13人に、二の丸門で暗殺された時の血が石にかかった為と言われている。
この暗殺が「高野(こうや)の仇討ち」の原因である。





その3 : 息継ぎ井戸

早水藤左衛門(はやみとうざえもん)と萱野三平(かやのさんぺい)の早討ち(早かご)2人が、この井戸の水で息をついだ。
以来喘息に特効ありと。


江戸城松の廊下での浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)による吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)への刃傷(にんじょう)事件の第一報を知らせる為、元禄14年(1701年)3月14日夕刻に、赤穂藩士 早水藤左衛門と萱野三平が、早かごで江戸を出発し、赤穂城下に着いたのは3月19日の早朝であった。
彼らは約660kmの行程を4昼夜半(約110時間)早かごに揺られ続け、事件の第一報を知らせた。
城下に着いた両人は、この井戸の水を飲んで一息ついてから、国家老である大石内蔵助(くらのすけ)邸の門を叩いたと言われ、以来この井戸を「息継ぎ井戸」と呼ぶようになった。
現在は、この井戸の水は飲用出来ません。
普通、江戸から赤穂までの日数は約半月かかるところを、四日半で来た不思議。





その4 : 蜂の巣

『城門にあった大蜂の巣、蜂合戦の為全滅しましたが、これが殿中刃傷の前兆であった。』





その5 : 扶持離れ(ふちばなれ)の釜(花岳寺)

『理もなく茶釜のふちが欠けた。丁度殿中の事件と同時刻、依って、
扶持離れの釜となす。』


浅野長矩公の勅使饗応の大任の労苦を慰めんとして、大石は赤穂にあって遥かに茶を点じ、まさに献じようとした時、突然釜の縁が離れました。
四日半後、江戸の凶報が届き、刃傷の時刻と釜の縁の離れた時刻とが一刻も違わなかったので、花岳寺に納めて冥福を祈ったものである。







その6 : 忠義塚(花岳寺)

『亀の首が容易に動くくせに、決して抜けない』

寛延3年(1750年)義士の50回忌を前にして(48年目)義士を追慕の人々が建てたもの。
碑文は大石主税(1688〜1703年、16歳没)と幼な友達であった龍野の藩儒 藤江熊陽(ゆうよう、1683〜1751年、播州赤穂郡志の著者)が撰び、赤穂の藩医で能書家であった藤田東閣が書いたもので、この碑文は大変な名文であり、東京泉岳寺にある亀田鵬斎(ほうさい)の赤穂四十七義士碑と、江州大石荘(滋賀県大津市の南部)にある栗山潜鋒(せんぽう)の忠義碑と並んで、義士に関する三大碑文と称されている。






その7 : 鳴らずの梵鐘(ぼんしょう)(花岳寺)

赤穂町民、義士の最期を悼んで夜を徹して、撞き鳴らして以来、はたと音韻を絶ちて五十年、遂に改鋳す。

この鐘は、赤穂浅野家二代の藩主で、長矩公の父に当たる長友公が、その父長直公(初代)の菩提の為に奉納されたものである。
言い伝えによると元禄16年(1703年)2月4日赤穂浪士四十六士が江戸で切腹したという報が赤穂に届いた時、町民が非常に悲しみ花岳寺に集まり、この鐘を撞いてつきまくって以来、この鐘が音韻を失い鳴らずの鐘になったという。
寛政年間(1789年〜1801年)に改鋳しているので、鳴らずの鐘は今は鳴っているから不思議だという。