赤穂市立歴史博物館
塩の歴史から義士の歴史まで、赤穂を探索
赤穂市立歴史博物館は、郷土の歴史に関する資料の収集・保管・調査研究および展示することによって、教養の向上・文化の発展に資することを目的として、平成元(1989)年に建設されました。また本市の特性であり、多くの人々から親しまれている赤穂義士と塩を普及啓発する拠点となることをめざし、愛称を「塩と義士の館」といたしました。常設展示は、1階に国指定重要有形民俗文化財の製塩用具を中心にした「赤穂の塩」、2階に模型・絵図・出土遺物等による「赤穂の城と城下町」、史実と文化の両面側からとらえた「赤穂義士」、出土遺物・映像等で説明する「旧赤穂上水道」の4つのテーマで構成しています。特別展・企画展を年に1~2回程度開催しており、常設展示以外のテーマで、さまざまな切り口から郷土赤穂の歴史と文化を紹介していこうと努めています。そのほか、講演会や講座なども随時開催しています。
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- 住所
- 〒678-0235
兵庫県赤穂市上仮屋916-1
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- アクセス
- JR播州赤穂駅から徒歩15分
車7分
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- お問い合わせ
- 0791-43-4600
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- 定休日
- 水曜日(祝日の場合は翌日)
年末年始
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- 開園時間
- 9:00~17:00
※入館は16:30まで
【入館料】
大人:200円 小/中学生:100円
赤穂の歴史と文化を4つのテーマで紹介しております。
【赤穂の塩】
赤穂は古くから塩の産地として栄えてきました。なかでも江戸時代には入浜塩田による 製塩法が完成され、その技術は瀬戸内地方を中心に広く伝わりました。ここでは赤穂流の入浜塩田の特色や技術、 また赤穂塩の流通などについて、製塩用具(国指定重要有形民俗文化財)・入浜塩田模型・塩廻船模型などで説明しています。 特に製塩用具は、今日では見られない塩づくりの技術や作業の苛酷さを私たちに教えてくれます。
【赤穂の城と城下町】
今日にのこる赤穂城は浅野長直のとき、近藤正純の縄張りにより寛文元(1661)年完成しました。 赤穂の政治・経済の中心であった赤穂城と城下町のうつりかわり、赤穂城の築城技法の特色を発掘調査の結果をまじえ、 赤穂城模型や城下町絵図などで表現しています。
【赤穂義士】
元禄14年(1701年)、江戸城本丸御殿松の廊下で浅野長矩が起こした刃傷事件から翌年12月の吉良邸討入りに 至る一連の事件の経過を史実にもとづき概説するとともに、芝居・絵図・出版物など庶民文化に広く浸透し、今なお私たち日本人の 心を揺さぶり続ける「忠臣蔵」の世界をあわせて紹介しています。このコーナーの一角には映像室“赤穂義士シアター”があり、 事件の概要をまとめた映像と文楽「仮名手本忠臣蔵」の上演風景の一部を収録した映像の2種類を上映しています。
【旧赤穂上水道】
井戸を掘っても海水が湧き出るようなデルタの上に城や城下町を造るには、まず上水道の設備が必要でした。 池田輝政の赤穂代官垂水半左衛門が最初に設けた上水道は、その後も拡張・改修がなされて、赤穂城内と城下町へ千種川 (古くは熊見川といった)の水を配給し続け、人々のくらしを支えてきました。さらに、城下の町家へ各戸に給水するという 全国的にもまれな施設でした。その旧上水道のしくみを給・配水管の実物や映像で説明しています。
大人:200円 小/中学生:100円
赤穂の歴史と文化を4つのテーマで紹介しております。
【赤穂の塩】
赤穂は古くから塩の産地として栄えてきました。なかでも江戸時代には入浜塩田による 製塩法が完成され、その技術は瀬戸内地方を中心に広く伝わりました。ここでは赤穂流の入浜塩田の特色や技術、 また赤穂塩の流通などについて、製塩用具(国指定重要有形民俗文化財)・入浜塩田模型・塩廻船模型などで説明しています。 特に製塩用具は、今日では見られない塩づくりの技術や作業の苛酷さを私たちに教えてくれます。
【赤穂の城と城下町】
今日にのこる赤穂城は浅野長直のとき、近藤正純の縄張りにより寛文元(1661)年完成しました。 赤穂の政治・経済の中心であった赤穂城と城下町のうつりかわり、赤穂城の築城技法の特色を発掘調査の結果をまじえ、 赤穂城模型や城下町絵図などで表現しています。
【赤穂義士】
元禄14年(1701年)、江戸城本丸御殿松の廊下で浅野長矩が起こした刃傷事件から翌年12月の吉良邸討入りに 至る一連の事件の経過を史実にもとづき概説するとともに、芝居・絵図・出版物など庶民文化に広く浸透し、今なお私たち日本人の 心を揺さぶり続ける「忠臣蔵」の世界をあわせて紹介しています。このコーナーの一角には映像室“赤穂義士シアター”があり、 事件の概要をまとめた映像と文楽「仮名手本忠臣蔵」の上演風景の一部を収録した映像の2種類を上映しています。
【旧赤穂上水道】
井戸を掘っても海水が湧き出るようなデルタの上に城や城下町を造るには、まず上水道の設備が必要でした。 池田輝政の赤穂代官垂水半左衛門が最初に設けた上水道は、その後も拡張・改修がなされて、赤穂城内と城下町へ千種川 (古くは熊見川といった)の水を配給し続け、人々のくらしを支えてきました。さらに、城下の町家へ各戸に給水するという 全国的にもまれな施設でした。その旧上水道のしくみを給・配水管の実物や映像で説明しています。